人は自分のことをなぜ知ってほしいのか

フェイスブックを毎日使っている人の中には、自分のこと、自分の体験したことを、こまめにアップしている人がいます。

 

フェイスブックはツイッターのつぶやきよりも、内容が具体的に書かれてあることが多いです。お昼に何を食べたとか、何処に出張したとか、誰と飲んだとか、誰にでもある普通の話です。それらは、有名人が発信するのなら、価値もあるのでしょうが、何処の誰だかわかんない一般人が、カラオケに行ったとか、昨夜遅くまで酒を飲んだとかなんて、誰も知りたいは思いません。ましてや、人の悪口や批判、愚痴などになると、読むほうも気分が暗くなります。こんな話をわざわざ書くなよ!と腹立たしく思う時もあります。

 

そんなに読むのが嫌だったら、投稿を非表示に設定すればいいじゃないの?というのはわかってはいますが、知人でもあるのでそこまでは・・と思いつつ、時々目に入る投稿にうんざりすることが多いです。

 

しかしどうして、彼らは熱心に自分のことを発信し続けるのでしょうかねえ。私には、そういう願望があまりないので、とても不思議に思います。

 

そういえば、ネットではなく、リアルな世界でも、自分の内面の情報を発信している人もいますよ。

 

まず、独り言をいう人がそうです。心に思ったことをすぐに喋ってしまう人。家族や職場で、独り言をいつも言っている人がいると、鬱陶しいですね。もし電車で、隣の知らない人が独り言を言っていれば、気持ち悪いと思って席を離れるでしょう。道を歩いていて、道路で独り言を呟いている人がいれば、この人はどうかしてるのではないか、と怖くなります。

 

また、独り言ではないが、会話をすると、人の話を聞かずに一方的に自分の話ばかりを聞かせたがる人もいます。だいたい自分の自慢話をして、こちらの話を入れると、すぐに自分の話を被せてきます。とにかく自分の話を聞いてほしいのです。一緒に酒を飲んだりすると、ゲンナリします。

 

たぶん、毎日どうでもいい情報をネットにアップしている人たちと同類でしょうね。だから、ネットで発信している人は、人の気持ちなんか気づかないで喋っている人と同じように、人からどう思われるかなんて、気づかないし、あるいは気にしないのでしょう。

 

昔、「サトラレ」という漫画がありました。自分の考えが電波性の思念となって、周囲の人に漏れてしまうという設定でした。人の思考を読むESPとは逆の発想なので、面白い発想だな、と思いました。

 

まさにこのサトラレです。思ったことや考えたことが、ただ漏れているだけ。

 

なぜそんな人々が多いのでしょうか。それは、自分のことをわかってほしい、何かを伝えたい、というのは、人間の本能に近いところの欲求だからではないでしょうか。

 

考えてみてください。我々は太古の人類と違い、現代文明の中で、文化的な生活を送れています。この文明は、人類が長い時間をかけて築きあげてきたものです。それを細分化すると、元は人間の知恵ということになります。その知恵は、個人が考えたものが、他の人に共有され改善されたもの、つまり人類が脈々と知識を蓄積してきたものだといってもよいでしょう。

 

だから人類の発展を、人間が持つ特性の結果と考えるならば、知識の共有というのは人の特性、人が持っている本能的なものだと思うのです。

 

人類が言葉をまだ持っていなかった遥か昔、人々は集落をつくって生活していました。ある男が獲物がたくさんいて捕まえやすい場所を、見つけました。その男は、帰ってきてから仲間に、そのことを伝えようとします。「あうあ、ぼひ」と言葉にならない声で一生懸命伝えるのです。そんなことが何世代も繰り返され、身振り手振りと表情、そして発声が、後にだんだんと言葉らしきものをつくり、お互いの考えを伝えあうようになっていったのです。

 

そこには仲間同士で知識を伝えあうという原始的な欲求が存在しました。そして今のSNSで大量に発生している、どうでもいいネット上の情報も、同じようなものだと思います。

 

私はツイッターとかフェイスブックとかが好きになれないのは、他人のサトラレ投稿が目に付くからなのですが、人類が発展してきた要因でもある、と考えればあまり腹を立てずにすみそうです。それにこのブログだって似たようなものでしょうね。

 

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