女性がセックスで満足できない本当の理由

女性のセックスによるオーガズムについて、男性の一般的な知識は、だいたい以下のようなことだと思います。

 

1.女性のオーガズムには、陰核(クリトリス)への刺激によって得られるオーガズムと、膣(Gスポット、ポルチオ)への刺激によって得られるオーガズムがある。

2.陰核のオーガズムは少女期から得られるものであり、成熟してセックスに慣れてくると膣によるオーガズムを感じるようになってくる。

 

この膣オーガズムを最初に言い出したのは、心理学者のジークムント・フロイト。女性に本当の性的満足を与えるためには、男性の陰茎(ペニス)による刺激が重要だということを言いはじめました。

 

ある程度経験を積んだ女性は、自分の体のことなので、そんな話は自分にあてはまらない、と考えている人も少なくないとは思いますが、多くの男性はこの話を信じています。女性を性的に満足させるためには、以下のようなことが理想だと考えてます。

 

1.ペニスは長くて太いほうがよい。挿入してからGスポットやボルチオへの適切な刺激を与えられるから。

2.挿入してから射精までの時間は長い方がよい。理想的には20分以上持続できること。

 

しかし残念ながらそんな男性は少数派。女性に調査した某統計資料によると、前戯では5人に1人、挿入では3人に1人が「10回SEXしても1回もイケない」と回答。そもそも7割の女性が膣でのオーガズムを得たことが無いとのこと。多くの男は女性をセックスで女性をオーガズムに導けていないのです。男側はオーガズムを得ているはずですが。

 

理想的なセックスというものは、男性の挿入によって、女性がオーガズムに至るというものだというのが一般的な常識とされているのにもかかわらず、そういうセックスが出来ている人は、かなりの少数派なのですね。たぶん大多数の人達は、自分あるいはセックスの相手が、性的に未熟であるか、劣っているか、と考えているのではないでしょうか。

 

しかし、この話どこかおかしいと思いませんか?そもそもどうして女性の体や男性の体がそのようになっているのでしょう。不自然ではないでしょうか。

 

実はこの答えは簡単なのです。

 

そもそも女性の体は、簡単にセックスで満足できないような体が普通なのです。現実として、多くの女性がそうなのだから、それがつまり普通、一般的で、セックスで満足しやすい女性は少数派と考えるのが自然でしょう。フロイトは統計的な分析をしていないのですね。

 

つまり一人の男性で一人の女性が満足できる、という体になっていないと考えるのが自然です。その理由も人類の歴史を考えると納得がいきます。

 

人間が一夫一妻制になったのは、人類史のうちのかなり短い期間。人の歴史を十万年前からとすると、せいぜいここ1~3千年くらい。一夫多妻制もありましたが、農耕が始まる前の、狩猟をしていた人類の数万年は多夫多妻制でした。

 

多夫多妻というと少し誤解を招くかもしれません。数十人の老若男女が、ひとつの集落、共同体をつくっていたというほうがよいでしょう。その共同体の中で、妊娠できる女がセックスをしたい複数の男たちと交わっていたのです。生まれた子供は集落の子供として育てられていました。

 

女性がセックスのときに声を出すのも、その時代には重要なことでした。セックスをして他の人に聞こえる大きな喘ぎ声は、「今気持ちいいことしているよ。他の男もいらっしゃい。」というサインであるわけです。それを聞いて興奮した男たちが続いて交わり、その中から選らんだ精子を受け入れ受精する。そういう生殖方法が長く続いたのです。だから一人の男で満足しない体になっているだけ。

 

まあこの辺りの話は、文化人類学などの文献に書いてあります。

 

婚姻という制度は、男が社会をつくっていくための必要性によって生まれました。集落の中で婚姻した女には、他の男は手を出さないという制度をつくらなければ、男は女を得るために争うからでした。セックスを得られなかったり、邪魔をされたりすると、怒りで殺してしまうこともありましたから、お互いルールを尊重しよう、と婚姻制度がつくられたのです。

 

つまり女性の体は、現在の社会的なルールとは一致していません。不倫やら浮気を繰り返す男性の性質も、社会的なルールと不一致であるともいえるでしょう。

 

ですが、だからといって昔のような不特定多数の相手とセックスしなさい、現在のルールを無視してもよい、ということを言っているわけではありません。

 

性的に満足できないのは、そういう原始時代の人間の体だからであって、特別なことでも異常なことでもないということ。社会的なルールは争いがないような社会をつくるための先人の知恵ということ。そういう不一致不完全が人間の体や社会ということであって、それによって自分を責めたり、深く悩まなくてよいということです。ルールは人間の体の欲求のために存在するのではなく、共同体のためにあるのです。

 

 

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