数年前の何年間は、ノーベル賞の発表の季節になると、文学賞は村上春樹氏がとるかもしれない、とメディアでよく話題になっていました。私は30年以上昔からの村上春樹作品の愛読者なので、受賞すればよいなあ、とネットで関連情報を読むことが多かったです。
村上春樹氏に関する情報や意見をネットで乱読していると、意外と「アンチ村上春樹」といわれる人々が世の中にたくさん存在していることに驚きました。
人気がでてくると嫌いな人も多くなるのが世の常です。でも、漫画の「鬼滅の刃」や「進撃の巨人」がどれだけブームになって人気が出ても、批判したり嫌ったりする人はあまり見かけられません。「この漫画はくだらないのに人気あってケシカラン!」と真面目に言う人もいません。
でも世界中で愛読されて、本の版数も重ねている村上氏の小説は、批判され、嫌われ、侮蔑すらされます。嫌いう人が多いのです。
嫌われる理由は様々です。昔はいい小説を書いていたのに最近のはダメだとか、軽薄でエロが多いにもかかわらず世間の評価が高すぎるとか、気どった文体が気に食わん。とか。
でも一番の理由は、村上作品は芸術作品ではないのに、高尚なブンガク、芸術作品であるという位置づけがケシカラン、ということではないかと思います。
漫画の場合は、娯楽という位置づけなので、人気があればあるほど立派な娯楽作品、お金を生む立派なコンテンツ、という評価になるのでしょう。ただ芸術作品といわれると、評価の基準はお金じゃない、となるのかもしれません。
私には、娯楽と芸術の間の線引きは、無意味なものに思えます。なぜならどちらも、人の思想や感情に影響を与えるという目的でつくられるものだからです。表現方法だってそう大差ないし、現在歴史的に芸術作品といわれているものだって、娯楽目的でつくられたものも少なくないからです。
何が違うかといえば、それらの娯楽作品の中から、一部の優れた作品を人類の財産というステージにあげて高く評価するということ。芸術というものを言い換えるなら、娯楽作品のエリート中のエリート、という位置づけですかね。
村上作品について話を戻しますが、芸術だとみんながもて囃し称賛しているけど、あんなものは大衆が騙されているだけだ、芸術の域に達していない、大衆の娯楽にしかすぎん、ということなのでしょうか。
長い年月がたっても、素晴らしい作品として評価されているものを否定するのは難しいです。時間の審査を受けているものですから。モナリザはくだらん、筆のタッチがわからないように描いただけの絵だ、なんて言う人の意見なんてねえ。
でも村上氏の作品の批判はできます。今評価されているだけなので。ただ、どうなんでしょう。売れてることは事実だし、そこまで批判しなくてもいいのではないかと思うのですが。
だいたい芸術としての評価基準なんて、絶対的な基準なんてないし、時代とともに価値観も変わるのだし。過去の芥川賞の作品がどんだけのもんでしょう。今でも読んで素晴らしいかといえば、つまんないやつも多いですよ。
最近やっと、村上氏のノーベル賞騒ぎは静化しました。カズオイシグロという日系の作家がノーベル文学賞をとってしまったからです。日系作家が続くことはないだろな、とみんな頭が冷えたからですかね。
私は、カズオイシグロという名前は「日の名残り」と「私を離さないで」という映画の原作ということくらいは知ってましたが、一冊も読んだことがありませんでした。
ふと、村上氏がとれなかったノーベル文学賞を、カズオイシグロがなぜ受賞できたのかを知りたくなって、小説を読んでみることにしました。
長編小説は、新しい順に以下の通りです。
クララとお日さま
忘れられた巨人
わたしを離さないで
わたしたちが孤児だったころ
充たされざる者
日の名残り
浮世の画家
遠い山なみの光
すべて読了しました。「クララとお日さま」以外は、すべて面白かったです。私なりに村上氏とイシグロ氏の作品を比べてみると、村上氏がノーベル賞がとれなかった理由が、なんとなくわかったような気になりました。
ふたりの作風に共通しているところが結構あります。暗喩とかメタファーというものを多用しながら物語を構築するところです。
一番違うところは、村上氏の小説の世界観がわりとワンパターンというか類似性を感じさせるのに対し、イシグロ氏は作品ごとに新しい視点にチャレンジしているような気がすることです。
私が、村上氏の作品が好きなのにも関わらず、作品が出るたびにやきもきする最大の理由がまさにそれ。新作を読んでも、過去で使ったような設定がよく出てくるわけです。「やれやれ」といいながらすぐ女の子とセックスしちゃう男とか。過去の作品の焼き直しというか自己模倣をものすごく強く感じるのです。
小説を書けもしないお前が偉そうなこと言うな、って言われれば確かにそうなんですが、無責任なファンの視点からすると、ぶっちゃけそんな意見なんですね。
音楽アーティストで例えると、村上氏はセカンドアルバムから5枚目くらいまではすごくいいんですよ。あーこんないい音楽あるんだ、って。でもそこからあとのアルバムは、新鮮味がなくなって、テクニックで誤魔化している感じ。ファンは次のアルバムはいいかもしれない、と買うのだけど、毎回がっかりしちゃう。
特に思うのが、村上氏はいつまでもセックスネタを使うところ。いや、セックスというのは人類共通のテーマなので、使うのはいいのですよ。でも老人が語るセックスというのは、なんだかとても悲しいのです。文学においてセックスというのは若者の命のほとばしりであってほしいのです。もう年なんだから、セックスネタを使うのはいい加減にしたらどうかと。年をとったクリスタルキングみたいだから。イシグロさんは、そんなの使わなくても話をつくれてますよ。
ちょっと村上さんには失礼なことを書きました。でもいいでしょ。私は本ほとんど買ってますから。いろいろカズオイシグロを読んでそう思った次第です。お二人はお互いをリスペクトされてるそうですし、仲いいみたいですね。