美の刺激について

私たちは美しい何かを見るのが好きです。

 

美しい景色、美しい建物、美しい異性、美しい絵画、美しい花、美しい庭、美しい車など、世界には美しい何かがあちこちに存在していて、それを見るのは我々の人生における楽しみのひとつです。

 

美しいなあ、綺麗だなあ、と心が感じるとき、なにか嬉しいような暖かいような気持ちが心にあふれ、明るい気持ちになります。その感動が大きい時は幸せな気分にすらなります。幸せな気持ちとは生きる喜びです。美を感じる心によって、生きる喜びを味わうことができるのは地球上の生物で人間だけです。

 

そして美をいつでも見たい、所有したいという気持ちになって、モノであれば欲しくなり、写真やポスターや動画であれば、いつでも見れるように媒体を所有したくなります。

 

でも、せっかく所有したとしても、美を感じる感情は永遠には続きません。残念なことに、美しさを感じる感受性というものは、固定されるものではなく、変化するものなのです。言い換えると、慣れたり飽きたりしてしまうのです。

 

その代表例は「美人は三日で飽きる」ということわざです。綺麗な女性と付き合う当初は、その美しさによって幸せ一杯な男も、時間が経つと次第に慣れてきて、外見の美しさだけで幸せを感じることが少なくなっていくのです。

 

美人だけではなく、絵画や音楽でもいえることです。感動して綺麗だと思っていた絵画も、幾度も眺めているうちに、感動は薄れてきます。好きな曲もずっと繰り返し聞いてくると、最初の頃に感じた高揚感がなくなってしまいます。

 

私にとってよく感じるのは映画です。最初に観て、綺麗な映像に感心し、ブルーレイ等のディスクを買ってしまったら、見る度に味が薄くなってしまう一方です。観ているうちに、手を抜いているところや、役者の下手さ、あざとい演出などが目について、だんだん楽しめなくなってしまいます。

 

盲目的に作品を愛せる人でしたら、そういう不完全な部分が見つかると、かえって人間味が感じれて、好ましく思えたりする部分もあるのだろうとは思います。本当の作品愛とはそのようなものかもしれません。

 

ところが、作品に刺激があるかどうかという楽しみ方をしている人は、慣れてくると飽きてきて、だんだんつまらかく思えてきたりするのです。そして新たな刺激を求めてまた新しいコンテンツを探し始めてしまう。

 

そうなってしまう理由は、ふたつあるのと思いまます。ひとつは、同じ刺激を繰り返して与えていると、だんだん刺激を感じなくなっていく、ということ。刺激というのは、変化です。皮膚の刺激を例にとると、軽く触るとこそばくなり、強くつかむと痛かったりする皮膚ですが、服がずっと皮膚に接触しているのは、気にならなくなってます。刺激を受ける感覚は、変化がないとわからなくなるのです。

 

もうひとつの理由は、人の視覚というものは、自分の見たいところしか見ていない、という特徴から生じるものです。

 

例えば美しいデザインの高級車があるとします。そうですね、例えば数千万円するフェラーリとか。美しい外装と豪華なインテリアは、男なら誰しもうっとりする工業製品です。

 

しかしその車も、部品に分けてしまえば、単なるプラスチックの成型品であったり、板金のプレスパーツであったり、製造工程が想像できる部品であって、人を引き付けるほどの魅力はありません。また、車は薄い鉄板で覆われていますが、その板金の切断面は内側に折り返されて隠されています。断面は錆びやすいですし、切断面は鋭利になっていて、指を切ったり、服を引っかけたりして危ないからです。

 

そうした細かい部品は、見えているところも見えない部分も、車全体のデザインを見ているときには眼に入りませんし、頭の中にもありません。自分が感じていること、自分が作り上げたいイメージに必要な情報しか、目から頭に入らないのです。視覚的情報の中から自分の見たいところだけ選別しているのです。

 

そうしていても、何度も繰り返し見ていると、最初は見えていなかった細かいディテールが見えてきます。最初にイメージとしてとらえていた全体の美しさが、次第に霞んでくるのです。

 

美しいデザインの車や服は、部品にばらしてしまうと、完成品が持つ美しいという価値は消えてしまいます。部品を意識させないことが、全体としての美という新しい価値を生むということを示しています。

 

人間の肉体美については言わずもがなですね。部品にばらす、というのは怖い話になりますが、細部を知ることは幻滅でもあります。

 

このように人間が自分の脳内で見たいものだけを選別して、美しいと考えているのであれば、美しさというものは人間の認識による幻想のようなものといえるかもしれません。見方を変えると、消えてしまう陽炎のようなものかもしれません。質量や分子の量などの物理的な数量とは違って、概念は人間の心の中に生まれたり消えたりしているのです。

 

しかしだからといって、美しさに価値がない、ということではありません。人の心に感情を与えるのが芸術です。そして美しさを感じる心がある以上、そこに価値は存在していると考えるべきなのです。

 

もし美しさの感動が薄れたとしても、そこにもともと何もなかった、自分が思い違いしていた、と考えるのではなく、その時には確実に存在した心の中の満開の華が、時の流れによって散ってしまった、くらいに考えるといいのかなと。

 

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